夜想曲の続き

感受性をそのままに。

忘れる前に思い出すべきこと

私にとっての初心ってなんだったのだろう。

 一年を振り返るとき、次の一年のことを考えるとき、

いつも自分の大切なものはなんだったのかを思い出さなくてはと思うのです。

 

このブログだってどうして始めたんだろうなって。

初めて調べて開設したとき、誰かに読んでもらっていることを意識して書くといいとどこかで知った。だけど私はどこでも誰にでも気を遣うことに、最近疲れてしまった。

顔の見えない見ているかもわからない相手を気遣うより、自分の心情をもう少し自分自身で汲んであげるべきだったんじゃないかと思う。

 

だから見直していこうと思います。ここで何を書くのか。

インターネットという場所に書くからには、ただの日記であるよりも、どこかの誰かの何かの役に立つとか、そうでなければもっとずっと私のために必要なこととして継続すべきと思えるようなことを書かなくてはいけないのではないのだろうか。

趣味を突き詰めたことでもDIYでも料理でもいいけれど、それは日々の備忘録なんてそれっぽい言い方でごまかすのはどうなのだろう。誰かに前置きしながら生きていくようなことからは、そろそろ卒業していきたいなあ。

 

私の人生はとても面白いのだ。正直嫌な記憶が大半を占めるけれど。でも、その私にとっての不幸は、今までずっと「私が特別な存在であるため」の材料であると認識して抱えていた。

私は長い間、家庭環境が不健全であったことを誇りに思っていた。ざっと見回した中でとりわけ自分が不幸であれば、私は周りから同情されて優しくされるはずと思っていたからだ。周りと比べて自分は少し違う、特別なんだと思いたかった。

いつでも愚痴をこぼして、「あなたは悪くないよ」と他人に言い聞かせて安心させてほしかった。そうすれば、自分は慰められるし、幸せを羨むことを許されると思っていた。

 

だけど、別に不幸じゃなくたって、自由にして良かった。

周りと比べなくたって、私は自分にとって誰よりも「特別な存在」だった。

理由がなくたって、好きに振舞って良かったのに、私は一生懸命嫌な記憶をかき集めて、忘れないように何度も何度も繰り返して、自分が幸せになれないように戒めていたのだと思う。

不幸であることが私のアイデンティティだと思っていた。

 

黙って健全に息をしているだけでも、それだけでどことなく幸せなことなんだと思う。誰がどう思うかは別として。それを、ネガティブで捻くれた自分が否定したとしても。きっと、これから何度も、優しい自分や心配してくれる他人が口酸っぱく「ここにいていいんだよ」って私に言うんだろうなと思う。それを私は微塵も信じられなくて、信じられるようになるまで何度も訊き返すんだろう。

 

私はこれから自分が何を幸せに思っていたか、何を信じたいと願っていたか、どんなものを愛しく思うのかを思い出します。

それさえわかれば、きっと今すぐにでも日々が小さな幸せで出来ていることを理解出来るのではと思っています。