夜想曲の続き

感受性をそのままに。

「自分なりの話し方」を遂に見つけてしまった話

図書館で、「羊と鋼の森」を借りました。
素朴で美しいものを描写しようとする主人公(あるいは著者でしょうか)の気持ちが伝わってくるようです。素敵なものがたくさん見つかりました。

本を読むとき、私はお気に入りを探します。

数々の言葉の組み合わせで出来た文章から。
素晴らしい情景や切ない心情を表現する、読み手の気持ちを揺り起こす一言を。
あるいは書き手の魂が込もった一筆を。
それは言葉になり、文章になり、物語になり、世界になる。

私はそう思っていて、本を読むことで私の中にお気に入りの言葉や場面が増えていく。引き出しが増えると、想像力の糧になる。

それがすき、それがたのしい。しあわせだと思うのです。

こういったものを集めた時、日常でどう使うかと言えば、たとえば話題としてだったり、他人を慮る素材だったり、自分の気持ちの整理整頓に使ったりするのです。が、なかなか難しい。


私は他人とも自分とも上手にお話できない自覚がありまして。
語彙力がないのだろうか、話し方が悪いのだろうか、そもそもうまく相手の話が理解できていないのだろうかと悩んでいました。

いつも、相手の話の意図を自分なりに(自分の言葉などで)解釈しようと、すると少しズレているような気がしてならなかったのです。実際、相手に「こういうことかな?合ってる?」と問うと、「いや…なんていうか…もうちょっとこう…」というように、とにかくお互いの感じた事がうまいこと伝えられず、もやもやしていました。

相手の意図を汲み取れないことで自己嫌悪することも多々あり、もう誰とも口を利きたくないとすら思っていました。わからないことが苦しかったのです。理解できない、納得できない、スムーズに話ができない、いちいち気になって気になって自分のダメさ加減にうんざりしていたのです。


ですが最近、こんな事を言ってくれた人がいました。
「あなたは擬音を使って話している方が、自分の言葉で人に伝えることができているように思うよ」と。

相手の言った擬音で話すというのは、ドキドキする、とか、もやもやする、とかこういう表現のことだと思います。私はよく「ぱやぱやする」とか「へちょれる」とか適当にそれっぽい表現で会話をすることが多々ありました。これは特に方言ということでもなく……ぽわっと出てくる、私にとってはなんとなくしっくりくるというだけの言葉です。

下手に相手の言葉や本から得たフレーズを活用するよりも、よっぽど扱い方、取り回し方を心得ている話し方で会話をした方が、より親身にお互いの思っていることが伝わると言われたのです。


ちょっと衝撃的でした。
綺麗な言葉や素敵な表現を集めていたけれど、それを眺めているのが好きなのだけど、私が最も得意としているのは、抽象的でなんとなく口に出してみた擬音での言葉だと言うのです。洗練された、あのお気に入りの表現達ではなく。
なんか間抜けだなと、そう思って、だけど納得してしまいました。

その方が話しやすく、実際に話も通じるのです。

私は活きた言葉を使っていきたい。湧き上がる感情にぴったりの言葉で対話したい。
そう願っています。丁寧で綺麗な言葉遣いがしたかったけれど、背伸びしすぎていたのかもしれないです。
私自身にもはっきりと理解できないニュアンスだけでの会話、確かにその方が心地が良いです。

憧れには程遠いけれど、しかし「自分だけの言葉があるのだ」と、まずは喜んでみてもいいのかなぁと思いました。

きっと魔法に憧れているのだということ

猛暑、猛暑と声が上がり始めましたね。熱中症で倒れる地域も多いとか。

脳味噌お大事になさってください。まだまだ替えの利かない器官でありますから。

単なる風邪のようにウィルスを撲滅して全快するようなものではないのですから。

 

先日、友人のウェディングパーティーにお呼ばれしました。

新郎新婦共に大学時代からの友人で、とても愉快なお二人です。

いつの間にかねんごろになり、気づいた時には籍を入れてました。

そういう着々と何かしらのステップアップをしていく姿勢、見習いたいです。

 

お二人の結婚式、加えてウェディングパーティーの分、二本の動画を作りました。

まあ、どちらもスライドショーです。友人からのお祝いのメッセージムービーではなく、新郎新婦からの依頼・監修の元制作したものです。ヒストリービデオと呼ばれるものでした。私たちは美大生でしたから、こういった制作活動には今もわくわくするものです。彼女は絵を描く方で、彼は木材などの加工が好きで、私はといえば映像(3DCG)を学んでいたのでした。学んでいたと言えるほどマジメな学生ではなかったですが、切羽詰まった環境ではなく、悠々と好きな表現を追い求めて形にしても構わないという空気だったので、ありがたくのんびり制作してぼーっとしている間に卒業しました。

 

今回ムービーを作るにあたり思ったことは、「もっと普段から手をつけていればよかった」です。技術的な意味でも、制作日程に関しても。ていうか今回に限った話ではなく、以前にも何かの機会に思ったような気がします。

 

ウェディングパーティーでは、私の作った動画は喜んでもらえたようでした。

だけど私は、納得できなかったのです。もっと、もっと出来たのにと感じてしまったのです。変な話ですが、今の私は出来ないけれど、本当ならもっと色々なことが出来るものを持っていたのにと思ったのでした。

ありがとうと笑顔で言われたのに、私は私の納得する域に出来栄えを持っていくことが出来なかった自分が不甲斐なくて、素敵な場なのに、一生に一度かもしれない瞬間に心から素晴らしいと思えるものを提供できなかった自分が、不愉快で情けなくてぜんぶ自業自得なのだということを思い知ったのです。

……そして、ここまでへこむということは、きっと本気でやりたかったのだろうと解釈した次第です。むしろ本気だったにも関わらず、志半ばみたいな状態でいるのが気に食わないのでしょう。単なる見栄っ張りだという節も否めません。たぶんそれも込み込みでしょう。

 

 

私はAfter Effectsを持っているのですが、これはとっても楽しい映像制作ソフトなのです。7年もののMacBook Proでいじくるにはちょっと重たいAdobe製品なのでいちいち動作を停止させられ、とてもやきもきしました。でも楽しいのです。

小難しくて手をつけるのが大変に思えるソフトです。実際そうです。

ただ、YouTubeやvimeoなどにたくさんあるチュートリアル動画通りに、わからないなりにも素直に触ってみれば、なんとまあ色々できるものなのだな、と気づきます。CM、テレビ番組、MVにボカロPVなどなど、そのあたりの映像でよく目にする表現やエフェクトは大体再現できます。個人的にはモーショングラフィックス系がアツいです。

 

ざっくりした言い方になりますが、 今回の制作で私は映像が好きなんだと再確認した、というお話です。

 

素敵なものが作りたかった。現実では出来そうもないシーンを生み出したかった。

色彩豊かな何かも、圧巻の名場面も、気持ちの悪いユーモアも表現したかった。

漫画やアニメでよく見る魔法使いの起こすエフェクトが大好きなんです。

なぜ自分には光の粒を放てないのか未だに疑問に思うほどあのきらきらが欲しいと思っていて、私の生身の指先から出せないのなら、電子の力でここに君臨させてやると思っていた……ということを思い出しました。

 

 現代で魔法使いになる方法は様々ありますが、私の場合それは想像力と技術力が噛み合ったときに起こせるものだと思っています。

 

別に何か物や利益を生み出すだけがすべてではなく。

適切な時に適切な言葉をかけてあげられることだったり、

いつかの自分のためにがんばってあげることだったり、

大したことじゃなくっても目に見えないことだったとしても、

ふっと心が救われるような瞬間があったとしたら、それが出来たとしたら……

 

それってもう魔法のようだとは思いませんか。大げさですか。

 

それでも、おおっぴらに素敵なことだと思っていた方が、

このちょっと理不尽な世界で生きていくにはちょうどよかったりしませんか。

私はそう思っています。

 

これから少しずつ、After Effectsの勉強をしたいなあと思います。

ためしにチュートリアルをそのまま自分でも作ってみたり、PVを勝手に考えて動かしてみたり。また何かの機会に映像をつくる機会があるかもしれないですよね。

手軽に高度な魔法が使えるようになりたい、

そんな目標のひとつを抱いた週末でした。

「心機一転」なんて耳障りの良い

都合の良い理屈をこねながら、今まで蓄えた文字を消した。

過去の自分の記録がなくなるのはなんとなくもったいないような気がしたけれど、この世に残せるものは有限で、個人が残せるものはもっと少ないと思う。

残すべきもののために席を譲っただけのことなんだと思う。

 

心はそうそう、転がったりしない。

 

そうやって忘れる前に思い出すべきこともあると思う。

私にとっての初心ってなんだったのだろう。

 一年を振り返るとき、次の一年のことを考えるとき、

いつも自分の大切なものはなんだったのかを思い出さなくてはと思うのです。

 

このブログだってどうして始めたんだろうなって。

初めて調べて開設したとき、誰かに読んでもらっていることを意識して書くといいとどこかで知った。だけど私はどこでも誰にでも気を遣うことに、最近疲れてしまった。

顔の見えない見ているかもわからない相手を気遣うより、自分の心情をもう少し自分自身で汲んであげるべきだったんじゃないかと思う。

 

だから見直していこうと思います。ここで何を書くのか。

インターネットという場所に書くからには、ただの日記であるよりも、どこかの誰かの何かの役に立つとか、そうでなければもっとずっと私のために必要なこととして継続すべきと思えるようなことを書かなくてはいけないのではないのだろうか。

趣味を突き詰めたことでもDIYでも料理でもいいけれど、それは日々の備忘録なんてそれっぽい言い方でごまかすのはどうなのだろう。誰かに前置きしながら生きていくようなことからは、そろそろ卒業していきたいなあ。

 

私の人生はとても面白いのだ。正直嫌な記憶が大半を占めるけれど。でも、その私にとっての不幸は、今までずっと「私が特別な存在であるため」の材料であると認識して抱えていた。

私は長い間、家庭環境が不健全であったことを誇りに思っていた。ざっと見回した中でとりわけ自分が不幸であれば、私は周りから同情されて優しくされるはずと思っていたからだ。周りと比べて自分は少し違う、特別なんだと思いたかった。

いつでも愚痴をこぼして、「あなたは悪くないよ」と他人に言い聞かせて安心させてほしかった。そうすれば、自分は慰められるし、幸せを羨むことを許されると思っていた。

 

だけど、別に不幸じゃなくたって、自由にして良かった。

周りと比べなくたって、私は自分にとって誰よりも「特別な存在」だった。

理由がなくたって、好きに振舞って良かったのに、私は一生懸命嫌な記憶をかき集めて、忘れないように何度も何度も繰り返して、自分が幸せになれないように戒めていたのだと思う。

不幸であることが私のアイデンティティだと思っていた。

 

黙って健全に息をしているだけでも、それだけでどことなく幸せなことなんだと思う。誰がどう思うかは別として。それを、ネガティブで捻くれた自分が否定したとしても。きっと、これから何度も、優しい自分や心配してくれる他人が口酸っぱく「ここにいていいんだよ」って私に言うんだろうなと思う。それを私は微塵も信じられなくて、信じられるようになるまで何度も訊き返すんだろう。

 

私はこれから自分が何を幸せに思っていたか、何を信じたいと願っていたか、どんなものを愛しく思うのかを思い出します。

それさえわかれば、きっと今すぐにでも日々が小さな幸せで出来ていることを理解出来るのではと思っています。